地球科学の特性−地球科学の革命前後−

 

波田重煕(神戸大学大学教育研究センター教授)

 

.  はじめに

 

 数学、物理学、化学、生物学と並んで自然科学の一翼を担う地球科学(高等学校の理科で“地学”と呼ばれる科目が、この学問分野をカバーしている)は、研究対象が地球である。紀元前4世紀のギリシャでは、すでに地球科学的知識がかなり蓄積していたとみなされているように、その歴史は古い。しかし、16世紀から18世紀にかけて他分野の自然科学が顕著な進歩を遂げたのに対して、地球科学のみはごく最近まで旧態依然としていて、自然科学の中でほとんど注目されないマイナーな分野である、というのが一般的な認識であった。そのことは、筆者が大学に入学した1960年代前半に地球科学関係の授業で習ったことを思い返すとよく分かる。当時の地球科学の主体をなしていたのは、固体地球圏(第1図)の表層部、中でももっぱら大陸の研究に従事していた地質学と呼ばれる分野であった。当時の地質学では、“内因的地質作用”(太陽エネルギーが関わる外因的地質作用の対語)という用語がしばしば登場した。地球内部で進行する火成作用、変成作用、あるいは地震等の地殻変動は全てこの作用によると教えられたが、具体的にそれが一体何であるかについては全くといっていい程説明されなかった。すなわち、火山活動や地震活動に地球内部の熱エネルギー等が関わっていることは想像できても、具体的にどのようなメカニズムでそのような地球科学的現象が引き起こされるかについては、当時の一般常識的な解釈をこえて明解な議論が展開されることはなかった。これでは、科学者はもちろんのこと、一般の人々に地

球科学に魅力を感じてくれと言っても無理な話であった。先日、地球科学関係の研究会に出席したが、地質学とは専門を異にする研究者が挨拶の中で、その当時について「地質学者はロマンばかり語っている、と思った」と話していた。その原因がどこにあったかは後で言及することにする。

 しかしながら、1970年を境にして地球科学は全く異なる存在に変身した。プレート・テクトニクスと呼ばれる「新しい地球観」の登場であった。科学の歴史を振り返ると、科学のある一つの分野に対して、その分野の専門家だけでなくて、もっと広く一般の人々が強い興味を抱くような時代がある。それは、たいていの場合、その科学の分野が人類の自然観や世界観に革命的な変化を与えるような飛躍的な進歩をした時である(都城,1965)。それは例えば、物理学における相対性原理、あるいは、生物学におけるDNAに対する一般の人々の興味の沸騰を考えれば良く分かる。プレート・テクトニクスの登場もそれまでの地球観に革命的な変化を与えるものであったことから、一般の人々も強い関心を寄せることとなったが、その状況を目の当たりにしたことがある。筆者は1975年にカナダ・ノバスコシア州のハリファックスにいたが、プレート・テクトニクスを組み立てる過程で次々と卓抜なアイデアを展開した世界的に著明なカナダの地球科学者であったJ. T. ウィルソン注)が、市民ホールでプレート・テクトニクスについて講演するという機会に巡り合わせた。夜8時から始まった講演会は、着飾った老若男女で溢れんばかりの盛況であった。演壇で紙とハサミを使いながらたくみに、しかも分かりやすくプレートの運動学を説明する彼に聴衆が釘付けになっていたのが今でも忘れられない。ちなみに、当時日本では「プレート論は仮説であって学説ではない。だから学説のようにプレート論を信ずるのはナンセンスである」といった主張が学会においてすらまかり通っていた時代である。

 プレート・テクトニクスという「新しい地球観」の登場によって、従前、ほとんど論理体系というものの欠如していた地球科学の世界に初めて筋道の通った考え方というものがあり得ること、それによって、異なる分野の人々とも初めて同じ言語で語り合うことができるような状況が生まれた(上田, 1979)のである。地球科学の革命と称される状況はその後も続き、自然科学の中での地球科学の存在度は以前にくらべると格段に大きくなった。

 このように、地球科学にとって大層重要な時期に研究者生活を過ごしたものとして、地球科学の革命の前後を振り返り、今後の地球科学のあり方について考えるのが本論の目的である。筆者は、大学院の修士課程を終了した後、38年に亘る地球科学の教育・研究生活を送ってきた。その中で、常に頭から離れなかったのは、都城秋穂氏が今は廃刊となった科学雑誌「自然」に1965年から1966年にかけて15回に亘って連載された「地球科学の歴史と現状」(その後単行本として出版された)で示された基本的な考え方であった。本論は、筆者が強く影響を受けた氏の考え方を、筆者の研究生活と重ねてまとめたものである。

 

 

注) J. T. ウィルソンについては、こんな思い出がある。彼はハリファックス市民に講演をする前に、まず筆者が滞在していたBedford Institute of Oceanographyを訪れた。彼に会うのを楽しみにしていた筆者は、張り切って朝早くから研究室に出かけ、製図台に向かい仕事をしていた。すると、仲の良い研究者が入り口から顔を覗かせて、いきなり「そこに広げている図面をすぐに仕舞え!」いうのである。何ごとかと怪訝な顔をしている筆者に、“彼が筆者の図を見たら何か全く新しいアイデアを思い付き、先に論文にしてしまうぞ”というジョークだと彼は説明した。J. T. ウィルソンの問題の核心を見抜く力や発想の凄さには、皆一目も二目もおいていたのである。彼は、大学を退いた後は、オンタリオ科学博物館長として、自然科学の普及に全力を尽くした。

 

. 地球科学の特性

 

 地球科学(Earth Sciences)は、地球物理学(Geophysics)、地球化学(Geochemistry)、地質学(Geology)の3つの個別科学で構成される複合的な学問分野である。前述したように、地球科学の場合、物理学や化学と根本的に異なる点は研究対象が地球と決まっていることである。最近では、惑星についても地球を研究するのと同じような手法で研究可能となってきたことから、地球・惑星科学と呼称されることもある。従って、地球を物理学固有の原理や学問体系に沿って研究する地球物理学が成立し得るし、地球化学も同じである。このようにみると、地球科学は、数学はもちろんのこと物理学や化学の基礎の上に成り立つ応用理学的な側面が強いことがわかる。ところで、地球生物学という組み合わせはあり得ないが、生物学との関係も深い。地球科学の中で最も伝統的な位置を占め、独自の原理と独立した体系を持って発展してきた地質学の中の一つの分科として「古生物学」がある。古生物学はこれまで、地層の一部として含まれる過去の生物(古生物)の記載・分類と、その積み重ねによって明らかになってくる“進化”の問題を主に扱ってきた。少し前に話題を集めた映画「ジュラシック・パーク」で、琥珀の中に保存された蚊の化石からDNAを抽出して中生代末に絶滅していた恐竜を蘇らせるというストーリーが組み立てられていたが、現代の古生物学では、生化学など生物学の最先端の研究手法も導入して化石を研究することが始まっている。なお、筆者は地質学を専門としてきたので、本論で地球科学と言う場合には、地質学を中心に据えている。

 地球科学には、19世紀前半に一時的には革命的な新しいアイデアに満ちた魅力的な学問であった時期があった。それは、当時のキリスト教会の見解に従い、地球の年令はわずか数千年と信じられていた時代に、イギリスのハトンやライエルはこの常識に挑戦して、地球の年令はそれより遥かに長くて数千万年とか数億年であると主張した時期である。彼等は、このような長い期間をかけて進行するゆるやかな変化が蓄積して、結果として山脈を作るような大きな変化となるのだと考え、自然観の根本的な転換を主張して一般の人々からも強い感心を集めた。しかし、この時期を除いて、地球科学はごく最近まで老化し、常識化した状態から抜けだせなかった。要因はどこにあったのであろうか。まず考えられるのは、地球科学が地球を研究対象としていることの帰結としての、地球科学の特性がある。

 第1に、地球は半径約6400kmで46億年前に誕生した太陽系の1惑星である。空間的にも時間的にもスケールの大きな存在であり、しかも地球は、誕生以来物理的にも化学的にも常にそのシステム(第1図)を変化させてきた。従って、そこで生起する地球科学的な現象も一般に大規模であり、極論すると、同じ条件下で発生することのない不可逆的な現象が地球では進行しているといえる。もちろん地球内部の様子を知ることは、長らく大変難しかった。それどころか、ごく最近まで海の底のことすらほとんど分かっていなくて、アポロ11号が1969年7月20日に月面に着陸し、乗員のアームストロングとオルドリンが人類にとり最初の1歩を月面に印した頃、月のことより海の中のことの方が分かっていないとよくいわれたほどである。

 第2には、第1の特性からの当然の帰結として、地球科学では本来の意味の実験をほとんど行えない。物理学などでは、条件を種々変化させながら実験し、自然現象を支配している本質を突き止めることができるが、長い歴史をもつ地球という個性をもった個別的な物体で発生した現象では、そうはいかない。従って、条件の分析が困難で、現象の本質的性質を失わないように理想化して過程をモデル化することや、理論的あるいは数値的な扱いをすることが極めて困難である。このことが、他分野の研究者と同じ言語で語り合うことを長らく困難にしてきた大きな要因である。

 

. 環境の地球科学の発展への影響

 

 そのような宿命の中で地球科学者は、地球科学の特性にどのように立ち向かってきたかのであろうか。地球科学関係の研究者の多くは、ひたすら地球の観察に基礎をおいて研究を進めてきた。地球の観察といってもいろいろな手段があるが、例えば地質学にとって日常的に最も重要なのは、野外調査における“露頭”と呼ばれる地球表層のごく一部分の観察である。一般的には、地表は植生、土壌、砂あるいは氷に被れていて、全岩露頭という状況はまず望めないし、地下の様子を直接見ることもできない。もちろん、個人が観察しうる範囲には限界がある。その上、点で観察している露頭の様子は、場所・場所によって全く異なるのが普通である。さらに、そこに残されているのは、地球が“進化”のそれぞれのステージで、その場の特定の条件下で進行させた“実験”の結果のみである。にもかかわらず、地球科学者はそこから地球が長い歴史の中で行ってきた壮大な“実験”の条件やプロセスを読み取り、それによって、例えば岩石の成因や地質構造の形成メカニズムに関する普遍的な法則性を論じ、理論を組み立てる努力をしてきた。

 しかしながら、種々の地球科学的現象を引き起こしている要因について言及する場合、地球の内部の状態が分かっていない段階では必然的に内因的地質作用を持ち出さざるを得なかった。さらに、グローバルな議論を組み立てようとすれば、それぞれの時代に、地球科学的な過程を支配していると考えられた根本原理に依拠することになる。それが、1970年以前にはこれから述べる“地向斜−造山論”であったのに対して、それ以後はプレート・テクトニクスが取って変わることとなったのである。従って、プレート・テクトニクスの出現によって、当然それまでの地向斜−造山論に基づいた議論は全く意味をなさなくなった注)

 ところで、人間の思考・行動は環境によってさまざまに影響され、それは学問の上にも色濃く反映されるといわれる。地球科学の場合には、地球の観察を基礎に成り立っている学問であることから、研究者がどのような地質的な枠組みの場所で教育を受け、何を観察してきたかという、育った環境の影響をとりわけ受けやすいことは明白である。

 地球科学者は、1950年代に入るまでの長い間、地球を理解するためにひたすら「大陸」の研究を続けてきた。当時は、何千メートルもの海水で被われた「海」の底のことを知ることはほとんど不可能であったからである。ところが、科学技術が進歩したことによって、海水に被われた海洋底の研究が可能となった途端に、プレート・テクトニクスが登場して地球科学は一変した。これは、環境が学問に強い影響を与えるという最たる例だと言えよう。地球表面積の1/3程度しか占めていない陸地に住んで「動かざること大地のごとし」などと言っていたら、残り2/3を占める海洋底のことがわかってみると、実は海洋底の岩盤は常に移動しながら新しいものに更新されていて、大陸は海洋底の岩盤のベルトコンベヤーに乗って移動している、ということになったのである。プレート・テクトニクスの出現によって、それまで内因的地質作用で片付けられていた地球表層で進行する火山活動や地震活動等の地球科学的現象の要因が、プレート運動に起因することが明らかにされ、発生メカニズムを明解で魅力に溢れた理論で説明できるようになった。現在では、さらに地球深部の研究が飛躍的に進展して、地球全体のシステムとして、プレートの運動そのもののメカニズムをも含めた理論体系が組み立てられつつある(プリューム・テクトニクス)。

 大陸の長い研究の中から生まれたのが、地向斜−造山論である(第2図)。それは、プレート・テクトニクスが誕生するまでの長い間、地球科学における最も重要な根本原理の一つとみなされ、多くの地質学者が論理を展開する場合の拠り所としてきた。それが誕生したのは、北米大陸の大西洋岸に南北に延びるアパラチア変動帯(“造山帯”)である。そこでは古生代の地層が異常に厚いことから、地殻の下方への撓曲運動に伴って10kmに及ぶ厚い浅海性堆積物(砂のような粗粒な堆積物を多量に含むことから、海のことがよく分かっていなかった当時はそう考えられていた)の形成が続き、やがて最も物理的に不安定となる中央部を中心にして、著しい火成活動(花崗岩の貫入など)や変成作用が進行して、“造山帯”が形成されるとみなされた。地球表面を物質が大規模に水平移動しているなどとは誰も考えていなくて、そこにある物質は基本的にはその場所で形成されたとみなされていた時代には、当然の考え方であったといえる。しかし、“大地”は動かないという前提が崩れることによって、プレート・テクトニクスに取って変わられることとなった。

 ところで、地球物理学者によって基本的な部分が組み立てられたプレート・テクトニクスを、初めて実際の地質に当てはめて変動(造山)論を展開したのは、DeweyとBirdの二人であった(1970)。その舞台となったのが、同じくアパラチア変動帯であった。そのようなことがあって、筆者はアパラチア変動帯の研究に携わってみたいと考えるようになり、博士号を取得するとNational Research CouncilのPostdoctorate Fellowshipに応募した。幸いハリファックス(カナダ)の前述した海洋研究所に受け入れられ、大西洋及び大西洋に浮かぶニューファウンドランド島のアパラチア変動帯の研究に携わることができた。研究成果は、プレート論に基づくアパラチア変動帯の形成史として公表したが(Hada,1980)、その経験は、その後の、とくにアパラチア変動帯とは全く造構的枠組みの異なる、環大平洋地域の変動帯の研究で大いに役立ったことはいうまでもない。また、実地にアパラチア変動帯を調査し、既存の地質図を整理してみると、地球表面で岩盤が大規模に水平移動していることが明らかになっていない段階では、地向斜−造山論はいかに巧みに造山帯の形成過程を説明していたかを、身を持って実感することができた。

 一方、日本では地質学へのプレート論の受け入れが遅れたことは前にも触れたが、実はプレート論が出現するまでは、地向斜−造山論に対して強い疑問を投げかける研究者が多かった。というのは、地向斜−造山論では種々の現象に中心があり、そこから両側へと現象の性質が変化する。例えば、変成度は造山帯中央部で最も高く、両側に徐々に低くなり非変成の岩層に移化するのに対して、日本で観察される地球科学的現象には、海側から陸側(あるいはその逆でもよいが)へと一方向への極性を持って変化する事象が多かったからである。例えば、日本列島では地震の震源は海側で浅く陸側へいく程深くなり(和達−ベニオフ帯)、火山フロントよりも陸側に分布する火山岩の組成も海側と陸側では異なり、さらに、変成岩の場合は海側に高圧型の変成岩が、陸側に高温型の変成岩がペアをなして分布する(Miyashoro,1971)(第3図)などの特徴があることが明らかにされていた。そういう中で、世界的に有名な岩石学者であった久野久は(Kuno,1959)、火山弧にみられる火山岩組成の帯状配列の原因を、マグマ発生の深さが海側から陸側へと深くなっているからだとした。久野のこの発想はプレート・テクトニクスの確立後も決して滅びることのなかった研究という評価が下されている(青木ほか編,1980)。このことは、逆に言えば、当時日本が世界をリードしていた火成岩や変成岩の岩石学、あるいは、莫大な量のデータを保有していた地震学と、当時著しく増大しつつあった海洋底に関する知識とが結びついて、日本人によってプレート論が提唱されていてもおかしくない状況が揃っていたといえる。ところが、1960年代初頭にヘスとディーツがプレート・テクトニクスの基礎となった「海洋底拡大説」を提唱した後も、いやそれどころか、1970年にプレート・テクトニクスが確立した後も、革命的な考え方を積極的に検証し発展させるような研究へとすぐには踏み出せず、それに対する拒絶反応が根強くはびこる状況が続いたことは実に残念と言わざるを得ない。

 ところで、いち早くプレート・テクトニクスが展開されたアパラチア変動帯であったが、実はその後のアパラチア変動帯研究の進展の速度は、北米大陸のもう一つの変動帯である太平洋岸のコルディレラ変動帯にくらべると遅々たるものであった。アパラチア変動帯では、1980年代になってもDeweyとBirdの考え方が基本にあって、現在のアメリカ大陸とヨーロッパ及びアフリカ大陸との間にかつて存在した大西洋(proto-Atlantic OceanあるいはIapetus oceanと称される)の海洋プレートとそこに堆積した地層(かつて浅海性堆積物とみなされた砂岩などは、海の研究の進展によって、大陸斜面を流れ下る乱泥流によって浅海からコンチネンタル・ライズにもたらされた深海堆積物であることが明らかになっていた)が、拡大から縮小に転じた海洋底の運動によって、最終的には両側の大陸が衝突することによって変動帯に転化したとする考え方は変わっていなかった。ところが、その頃コルディレラ変動帯では、全く別の場所で形成された複数の地帯が、プレート運動によって大陸縁辺域にもたらされてコラージュを形成するとともに、それはさらに大陸に沿って大規模に横ずれしたり、別の地帯に乗り上げて定置し、全く起源を異にする地帯同志が最終的に接するようになることが示されつつあった。すなわち、アパラチア変動帯の研究者は、もともと地向斜−造山論の模式地となったフィールドで育った研究者であり、プレート論は受け入れることはできたものの、現在の大西洋のように、大陸の間に存在していた大洋の部分が変動帯となったと考えていたことから、全然別のところからもたらされた物質が新しく変動帯に付加するなどという、その後の変動論の急速な展開に頭の切り替えがついていかなかったのではなかろうか。これも、環境が研究に強い影響を与えている実例であろう。

 

注) 筆者は、1973年に博士号を取得し、1974年にそれを印刷物として公表したが、学生には「私の博士論文は“便所紙”にもならない。」とよく話す。すなわち、筆者の“上等の紙”に印刷された論文は、卒業論文に始まる研究の集大成で、当然地向斜−造山論を基礎としていた。従って、プレート・テクトニクスの出現によって、論文の中で示したモデルなどは根底から覆されてしまったからである。ただしこのジョークは、筆者のように習字を練習した半紙や新聞紙をトイレット・ペーパーとしていた世代と違って、ロール紙しか思い浮かばない今の学生には通じない。また、モデルは成り立たなくなったものの、それを構築するために集めた野外のデータや実験データまでが意味なくなったわけではない。プレート・テクトニクスの基で、新しい考え方を構築するために今も役立っている。

 

 このように、論文の中で示されたモデルはもちろんのこと、野外調査の結果をまとめた地質図や地質断面図なども、作成した人がその地域に対してどのような地球科学的イメージを抱いているかを示した一種のモデルであり、当然そのときどきの地球に対する根本原理や概念に影響されながら構築される。従って、根本原理や概念が変われば、地質図なども全く違うものとなる。例えば、オリストストロームやメランジュの存在が明らかになる前と、その後では地質図も全く異なるものとなる。地向斜−造山論は詳細なアパラチア変動帯の野外調査に基づいて、当時の地球観として組み立てられたものである。従って、プレート・テクトニクスという新しい地球観が常識となった今になって、地向斜−造山論を単純にナンセンスだと片付けるだけでは、今後の地球科学の発展もないであろう。

 

. 野外の観察

 

 地質学にとってはとくに野外の観察が重要であることから、研究者がいかに多くの経験を積んでいて、露頭かどれだけ多くのことを読み取ることができるかということが、研究者として第一義的に重要となる。露頭の事象を前にしても、経験が十分でない場合には、考えうる可能性は限定されてしまうので、その露頭の意味を間違って解釈したり、理解が十分でなかったりする。そこで地球科学者は、国内各地はもちろんのこと、できるだけ海外にも出かけて、全く異なる地球科学的条件下で形成された地質を観察する機会を求めて経験を積む。例えば、日本列島は長い間大陸と大洋の境界に位置する変動帯として発展してきたことから、そこで形成された地質体(付加体が特徴的)中の褶曲構造と、大陸地域の例えばロッキー山脈に見られる褶曲構造とでは、形成条件も形成過程も全く異なる。そこで、国の内外を問わず、地球科学関係の学会が開催される場合には、研究発表に日程を割くばかりでなく、現地討論会や巡検と呼ばれる行事が同時に実施されるのが普通である。それぞれの地域の代表的な地質をその地域の研究者が案内し、露頭を前に観察される事象やその形成メカニズムについて参加者が議論を戦わす機会が設けられている。学問の成果は論文や書物の文字を通して知ることができるが、実はそれだけでは不十分なことが多い。論文をていねいに読んだとしても、実際には読む側の経験というフィルターがかかってしまうために、著者の言いたいことの意味を十分読み取れていない、あるいは場合によっては、180度異なる方向の理解をしてしまうことすらある。アパラチア変動帯の研究に携わる前に、Dewey とBirdの論文を何度となく読んでいたが、実際に調査をした後で読み返してみると内容を取り違えていたケースも多く、やはり百聞は一見に如かずだということを思い知らされた。

 野外の観察に基礎をおいて地球科学者は、個々の地域を研究する。地球科学が人類の活動舞台の性質を明らかにし、社会に役立たせるという任務を負っている以上は、個々の地域の調査や観測が重要なことはもちろんである。すなわち、個々の地域の研究することなしには地球科学は成り立たないが、都城(1965)はそこに存在する落とし穴について、次のことを強く戒めている。物理学が物質の構造を探究し、自然現象を支配する法則を物質の構成要素間の相互作用として捉え探究するように、地球科学が個々の地域を研究してそれぞれの地域に見られる種々の事象の関係を明らかにするのは、あくまでも地質学の原理や法則あるいは概念を検討するためと手段のはずである。その場合、物理学者や化学者であれば、アメリカで行われたと同じ実験を日本でやったら同じ結果が出たとしても、それを論文にするわけにはいかない。ところが、地質学の場合にはアメリカで見られたと同じ現象が日本で見つかっても、それは論文になり、業績になる。地質学が対象とする地球の表面が地域的な個性を持っていて、日本の状態を調査すること自体に実際的な価値があるからである。しかし、新しい地域の調査や観測をしさえすれば、それが一つの業績になるということは、個々の地域の調査があくまでも真理の探究の手段であるということを忘れさせ、学問の原理や概念あるいは法則に対する探究心を麻痺させ、地球科学が老化していることや常識化していることから目を逸らせることになる、という指摘である。これから益々、人類社会への貢献や業績が求められる世の中になるであろうが、常に念頭においておかねばならない重要な指摘であると考える。

 

. 最後に−地球環境問題への貢献−

 

 プレート・テクトニクスの登場以来活気づいている地球科学分野であるが、今後へ向けた動きも活発である。先日開催された地質学会では、今なぜ地質学会の発展が必要なのかとして、次のような指摘をした。

 

●地球環境と生命の未来の正確な予測が今ほど求められていることはありませんでした。

●未来予測の鍵は過去と現在を「良く知る」にあります。

●地球と生命の過去を最も良く知る「地質学」の飛躍的発展は正確な未来予測に不可欠なのです。

                              (地質学会News, 2003)

 

 地球科学が今後どのような研究を重視し、どのように人類社会に貢献すべきかに関する同様の見解は、最近方々でなされている。本年2月、筆者が関わっているユネスコと国際地質科学連合の国際共同研究の科学委員会が、パリのユネスコ本部で開催された。そこで強調されたのは、21世紀の人類社会に貢献する地球科学であり、(Geosciences in the Service of Society)、そのためには地球科学が地球環境問題に寄与することが最も重要であり、さらにその成果を社会に普及する活動を続けることが大層重要であるとした。

 ユネスコは、既に690ケ所の「世界遺産」を指定したが、その内に占める自然遺産は20%程度である。さらに、現在遺産への指定を申請しているものが1000ケ所を越えている。その中で、自然遺産として指定される可能性があるのは、100ケ所程度であろうとみなされている。しかし、ユネスコの地球科学部門としては、これだけでは緊急の課題である地球環境問題に自然遺産を通して対応することは無理と考えている。そこで、世界遺産とは別に、顕著な普遍的価値を有し、自然遺産の登録要件に準じるような人類共通の地質的財産を、Geopark(地質公園)として選定し、それをGeotourism(最近、例えばメコン・デルタに出かけるEcotourismが人気を博しているが、同様の考え方)と組み合わせることによって地球環境問題の普及に活かそう、という考え方である。地球科学者がこの活動に積極的に協力することが要請された。

 日本ではまだGeoparkに指定された場所はないが、中国では既に40ケ所以上の「国家地質公園」を選定して、ユネスコの活動に協力する準備を進めている。先日、ユネスコの国際プロジェクトの中国における30周年を祝う会議に出席した際、その一つの北京石花洞国家地質公園(写真1)を訪れる巡検が実施された。洞のスケールの大きさと鍾乳石などの保存の良さもさることながら、最新の視聴覚器機を駆使しながら石筍などの研究から得られた最終氷期以降の気候変動について解説したミニ・ミュージアム展示が印象的であった。

 神戸大学の地球科学教育に携わっている地学教科集団は、「地球と環境(現在は、地球と惑星)」の授業において、地球環境問題が人類に取ってさけて通れない緊急の課題であることを強調してきた。前述したように、現在では地球内部に関する我々の知識も飛躍的に増大したことによって、現在の地球システム(第1図)が、46億年の地球の歴史の中でどのように変遷しながら成立したかについても言及することが可能となってきた。さらに、地球では、そのサブ・システムの間で物質とエネルギーのやり取りが微妙なバランスの基に進行してきたが、それが人間圏という特異なサブ・システムの出現によって、自然にではなく人間の活動によってそのバランスが崩されようとしているのが、地球環境問題であることを強調している。

 さらに、地球内部の“進化”の様子が議論できるようになった結果、生命と地球は相互に密接に影響しながら、ともに進化してきたことが明らかになりつつある(第1表)。「生命と地球の共進化」は、今後の地球科学にとって重要なキーワードとなり、地球環境問題について考える場合にもキーとなる。

 

 

引用文献

 

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