教養原論を担当して
 
国際文化学部教授 魚住和晃
(教養原論「芸術の思想と表現」担当)
 
 開講にあたって大勢の学生の顔を見ると、嬉しくなり気合が入る。これは生来の貧乏癖に加えて、私の「書」という時代遅れな専攻分野が、若者達にはたして受入れられるのかどうか、つねづね不安とともに過しているからである。シラバスの書きかたにはなるべく工夫するのだが、所詮は苦肉の策にすぎない。
 その一方で、殆ど選択の余地がなく、やむなく履修している学生が少なくなかったことも、また事実であった。あふれかえるような数量の学生のうちの多くが、講義内容にせめてもの関心を持つものではなかった。その彼らに、半年間をいかに授業として耐えうるものにするかということが、大きな課題であった。かくして、私は授業をこの分野を宣伝するための絶好の場と解し、取り組むようになった。
 はじめははっきりしたものがなかったが、授業を聞いてみておもしろいから、最後までこれは出るぞと決めて出席したという学生の存在を知り、大いに心を励まされたことがあった。こちらも生身の人間である。やりがいのある、生きた授業をしたい。
 今般の全学共通授業科目の改革で、一授業の学生数が大幅に減じられた。かつての無秩序な事情が是正されて、学生と教官との距離がぐっと近くなった。同僚から、教室の座席数と履修者数とが準じたものになっているので、出席状況がすぐわかり、やりやすくなったねとの声を耳にした。授業の後、質問や内容の確認に来る学生もぐっとふえている。黒板の消しかたを怒られたりもした。これらは授業が学生と一体になっている表れと解される。
 学生数が減じたということは、ただちに授業数がふえ、教官の負担が増大したことを意味する。ここには、教官の立場がわかり、また大教センターの立場がわかるそれぞれの担当教官にとって、苦しい選択があったことかと思う。学生の思考や視野が、次第に狭くなっていると聞く。教養原論のはたすべき使命は、一層大きくなっていくことだろう。全学の学生は、全学教官の学生でなければならない。全教官が神戸大学という大きいひさしのもとで教育を共有するという視点が広がり、さらなるよき改革が進められることを望むものである。